10月1日に開催されたd-log.030_3シリーズ図書館セミナー第三弾。
講師の長尾館長と作家・円城塔氏より、アンケートに寄せられたみなさまからの質問への
回答が届きましたのでさっそくご紹介させていただきます。
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[質問]
音楽は小説より定型化していると思うので、小説よりも先にプログラミングのような
ことが出来ると思うのですがその場合は小説(というか言語そのもの)と異なる点などはあるとお考えですか?(演奏者によって同じ曲が違うように扱われる、のようなことが言語では起きているのか等)
⇒長尾氏:古典的なクラシック音楽は規則性が高いので、その可能性は大きいでしょう。演奏者によって違うのは解釈や理解、フィーリングが異なるからであって、これは文章についても同じように生じます。ただ音楽のほうがより感性に訴える要素が強いので、音楽の方が違いが大きく出るでしょう。
⇒円城氏:自分が音楽について語ることができるとは思えないわけですが、
小説には記譜法しかないわけです(朗読等はありますが)。
その点、記譜しきれないし必要もないかも知れない音楽というものとは、本質的な差があるとは思っています。小説で音楽的なことをやろうとすると、記譜によって読み手を奏でる方法を探るしかないわけです。これはかなり狂った発想なわけですが、既存のアルゴリズムで書かれた小説があるならば、
そのアルゴリズムの方を作品と呼ぶべきだ、というのが立場です。
[質問]
言語が生み出した人間性みたいなものはあるのでしょうか。
⇒長尾氏:おおありです。古今東西の人間の刻んできたものは人間性の反映であり、これが言語を通じて次の世代の人間性を作っていきます。
⇒円城氏:なければ気づかずに済んだことを猛烈に組み上げているという感覚はあります。
子供が言葉を覚えた時に、自分の発言に引っ張られて引っ込みがつかなくなったり、
多言語習得者が利用言語によって異なる推論を行ったりするようなことは、日常的に起こっているわけです。大変人間的なことだと思います。
[質問]
推敲という行為について、お聞かせ願いたいと思います。
⇒長尾氏:推敲とは、それまで気づいていなかった見方、角度から考えなおしたり、修正したりすると共に、読者を想定してより良く訴えるようにすること、ととらえています。
⇒円城氏:推敲は、時間効率との兼ね合いと捉えています。どんどん時間をかけていけば、
どんどん良くなるというのは多分あるのですが、無限に時間をかけて無限に良くなるのを待てるか
と言うと無理なわけです。”良さ”の成長曲線が鈍ったあたりで、時間との兼ね合いを計るか、
全部破棄することになるかと。
[質問]
最後に「紙の本はなくなる」という可能性についてのお話で盛り上がりましたが、
そうなるとすれば“ストーリー”というものをどう紡いでいくかが気になりました。
「大切なものは文字では書けない」という宗教上の“口伝”の世界に戻るのでしょうか。
⇒長尾氏:このご質問は「紙かデジタルか」という次元の話ではありませんね。頭脳の中にあるものを外部に出し固定するということがキーとなります。どこに固定するか、すべては時代とともに変わってゆくと考えています。
⇒円城氏:吟遊詩人的存在か、地域コミュニティ型、お婆ちゃんの知恵袋的なものへ任せられることになる気がしています。
平坦に情報だけが広がる、もしくはインデックスの網目のみが相互敵対的に発達していった場合、
残るのは人間の体にむしろなるのではと。フィルトレーションが素朴に進めば、島だらけになるのではと。ただし、随分と先のことではあるはずです。他の要素が横から入ってくるでしょうから。
[長尾氏へ質問]
本の手触りっていいよね、としか言われない図書館員へのコメントをいただきたいです。
⇒長尾氏:図書館員はあらゆる点において利用者に最大の便宜を提供すべく常に努力すべきです。(資料の完璧な収集、利用しやすい体系の提供、あらゆる種類の相談、スピーディーなサービス等)。図書館員は本についての自分の楽しみは二の次、三の次であるべし、と思っています。
[円城氏へ質問]
文字・活字の誕生以前、ことばの起こりをどのようにお考えでしょうか。
⇒円城氏:ずっと考えてはいるのですが、全く想像できずにおります。
ただ、ぽつぽつとできて行ったのではなく、一挙にできたのだろうとしか。
目の発生とか、口蓋の発達とか、ままあるのですが、鳥はどうする、
蜂はどうするといった水掛け論になる気はします。そうしたところよりは、
言葉というものがあると認識できたことが気になります。
その認識が適当にできてしまったせいで、要らぬ苦労をさせられているという気もたまにします。
[円城氏へ質問]
円城さんの小説はSF慣れしていない自分には衝撃でした。
どう言葉を選んでいるのか、とても興味があります。
⇒円城氏:割と素で。というのは、自分が慣れ親しんだ文章の多くが、理数系の論文だったり、
理数系の一般向け解説書や、翻訳された小説であったりしたわけです。
というのは、”変な”日本語なのです。
それを変と呼ぶところを過ぎて、愛着を覚えるくらいになっている、というところでしょうか。
[円城氏へ質問]
ニヒリズム漬けでも、なぜ書き続けるのですか?生活の為、ということ以外でお願いします。
⇒円城氏:空いているものがあれば埋めるのが癖だから、でしょうか。
残っているのは、書くことで知ることのできるものがあるからです。
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異なるジャンルでご活躍されているお二人のトークセッションはとても刺激的で
次々に話題が展開されていく様子は、会場に大変大きな満足感に満たされました!!
次回の詳細等、決まり次第d-laboのHPでご案内致しますので皆さまお楽しみに。
カトウ